もりこーの木曽路日記

特別寄稿 巻本さんのアルバムから−8
今回はシーナリー等をHP用に送ります。木曾森林鉄道の車輌が元気に走り回っている頃は、どうしても車輌にばかり目がいき、撮影地から次の撮影地へと直行で移動しましたので、シーナリー等の撮影がおざなりとなっていました。ところが、林鉄レイアウトを作って「今までに見てきた素晴らしい情景を再現したい」という気持ちが高ぶるにつれ、細部の記憶が曖昧であることに気がつきました。特にウグイ川線の渓谷や木橋群は「目に焼き付けた状態」になっていたのでした。末期の頃は列車本数も少なく、連日大雨に祟られたせいで、有名撮影地で撮影できなかったばかりか、シーナリーさえ満足に撮影ができていませんでした。車輌がほとんど、あるいは全く走らなくなると、森林は自然回帰の力を見せつけ、数年も経たない内に施設は元の森林に復してしまいます。そこでまだ現状が確認できる間に、撮り忘れていたシーナリー等を撮影することにしました。最初はウグイ川線からです。今回(1978年の2回)は皮肉なことに両日とも天候は快晴、ピクニックにいくつもりで、早朝に大鹿を出発しました。なお、写真は最後の1枚を除いて、大鹿からの順になっています。


@黒淵から分かれる小俣線の鉄橋です。既に林道工事の土砂による崩壊で、画面右端より右側には行くことができなくなっていました。しかし、北市正弘さんの有名な運材列車の写真と同じ風景が、まだ残っていました。1978-8-27


A@を鉄橋上から見たものです。正面に見えているのがウグイ川線(右側が助六側)で、小俣線は黒淵でスイッチバックをしていました。小俣線の旧線のものと思われる橋脚が右に見えています。その角度から見て、旧線はスイッチバックをせずにオメガカーブで直行していたのではないでしょうか。1978-8-27


B黒淵ジャンクションを助六側から見たものです。中央の草が覆い茂っている所に引上線が2本分岐し、スイッチバックで小俣線の鉄橋に続いていました。引上線を使用しなくなって2年と経っていませんが、既にこの状態になっていました。1978-8-27


C秋の黒淵−濁沢の鉄橋。ススキはきれいなのですが、前から列車が来ないのが非常におしいですね(本日は運休)。1978-11-1


DCの鉄橋の先に集材側線がありましたが、残念ながら、集材設備は既に撤去されてしまいました。1978-11-1


E春萩越の集材基地跡。「強者どもが夢の跡」、前回の時、大雨の中でも撮っとけば良かった、と思っても後の祭りですね。1978-8-27


F坊主岩停車場。良く知られているように、大鹿から来た列車はここで180度ターンをして、さらに勾配を助六へと登っていきました。石積みを見れば明らかなように、ここから助六側は急勾配となっています。1978-8-27


G木橋の構成がよく分かります。坊主岩−助六間は前年に線路が撤去されてしまいました。1978-8-27


H通常、このような橋桁が流されやすい場所には、橋脚を入れないのが普通ですが、カーブしているのでやむなく梁を2分割したようです。真ん中の橋脚以外は、後に補強として入ったようです。1978-8-27


I坊主岩−助六間はこのように岩盤に張り付いた木橋が随所にありました。先端は右に90度の急カーブですので、その場所で前方から列車がくれば、どこに逃げたのでしょうね。でもその危険な先端で列車を待たなければならない理由が、我々愛好者にはあったのです。1978-8-27


JIの木橋の先端で振り返ると、有名撮影地だった樽ヶ沢なのです。樽ヶ沢に列車が走っている写真を見かけた方は多いと思いますが、この場所で撮影するには(立ち止まるだけでも)かなりの度胸が必要だった場所でした。1978-11-1


Kまるで、地学の教科書の挿し絵のような写真です。一番右側の歩み板は線路の撤去後に設けられたようです。この場所では決して左側(渓谷側)を見てはダメで、とにかく前方のみを見て進む必要がありました。1978-8-27


LKの場所は横から見るとこのようになっていたのです。有名撮影地だったのですが、どういう方法でこのような場所に橋脚や橋桁を架けたのかは興味のあるところです。1978-11-1


MGとは異なり、橋の高さが高いので、コンクリートのピア上に木部が乗っています。1978-8-27


N中の沢橋です。この場所も有名撮影地でした。線路を撤去した後、林業関係者のために歩道の柵が設けられていました。岩盤をトンネルで抜け、いきなり鉄橋にかかる構図は絵になりますね。但し、写真が撮れる足場は、両側が絶壁ですからこの場所しかありません。1978-8-27


OMと比べて木橋部分が短いですね。この橋が出てくると、助六作業軌道まであと少しです。1978-11-1


P助六谷に到着しました。前方に助六作業軌道の木橋が見えています。右側奥が助六方面です。なお、英語のvalleyは谷ですが、日本の風景ではぶどう園がある勝沼あたりの風景を差し、日本人がイメージする谷はcanyon(渓谷)と言います。この線の不思議な所は、坊主岩から奥が切り立った渓谷になっているのに対して、さらに上流に行くと、突然すり鉢状の助六谷が開けることです。1978-11-1


Q助六作業軌道の木橋を、横にある吊り橋から見てみました。1978-8-27


R同じ橋を逆サイドからです。なお、有名な助六作業軌道は、この木橋を除いて全て撤去されていました。 1978-8-27


S助六駐泊所の木造2線庫です。木立に囲まれた実に雰囲気の良かった機関庫もこの通り。1978-8-27


21.中から外を見てみました。1978-8-27


22.助六からさらに西方に延びる軌道を、奥に進んでみました。助六を出発した車輌は、右端の鉄橋から一旦手前に来たのち、180度ターンをして、上の軌道をさらに延々と奥に入って行ったようです。1978-8-27


23.まだ軌道は奥に続いていましたが、助六から奥に約4 km程進んだ所で崩壊がひどくなり、諦めて引き返すことにしました。1978-8-27


24.通交止(通行止?)。朝、行くときにはこの立て札はありませんでしたので、私が通過後に立てられたようです。私のウグイ川線における最後の写真は、この写真となりました。この崩壊場所は大鹿から約2 km程の所にあり、私が訪れる数日前の大雨で、約500 mに渡り路盤も含めて流出していました。復旧することはおそらく困難と思われる程の被害でしたので、従ってこの時点がウグイ川線の「実質の廃線日(即ち、木曾森林鉄道がなくなった日)」であったのかもしれません。1978-11-1