もりこーの木曽路日記

特別寄稿 天羽さんのアルバムから−5
白川製品事業所用レールの撤去作業

3回目の木曽行き。 写真のプリント年より79年の夏だと思います。
 1977年の助六行きの時は、まだ滝越〜三浦ダム間で関電や営林署のモーターカーが運行しているのを知らなかったのです(知っていたら行っていたでしょう)。これも、雑誌、おそらく蒸気機関車?に記事が掲載されていたのが発端でした。早速、王滝営林署に確かめたところ、「動いていたけど、夏前にはやめたよ」との返事。またまた機会を逃したと悔しいこと!しかし、軌道とかはまだまだ残置してあると考え、夏休みに再度の木曽行きとなりました。このときは前回の反省ということで休日を避け、平日に行っています。
 例によって、早朝、田島に到着し、滝越に向け歩き始めました。氷ヶ瀬から先、軌道は林道に改修されていました。ただ、トンネル部分だけは、まだ未改修でレールを剥がしただけの状態でした。途中の日向淵では大崩落の落石被いがそのまま残ってました。下黒沢からの濁川線跡は綺麗にトレースできました。下黒沢で右に別れ、すぐ切り通しとなった先にある、取水口への分岐。これはナローゲージモデリングでも簡単に紹介されています。この部分はレールが残ってました。写真を撮っていないのが悔やまれます。180度回り込み、王滝線に逆行し高度を稼ぐ部分も綺麗に残ってましたが、本来の目的である滝越へ行くことを優先し先へは進みませんでした。もしかしたら、何か残っていたのかもしれませんが、地震で完全に崩壊した部分であり残念です。下黒沢の鉄橋は自動車が通れるようになっていました。
 滝越に入ったところで、軌道跡かもともと道路か判別し難くなりましたが、例の商店(名前が思い出せません=平沢商店(もりこー記))がそのまま有り。ここが停車場跡だなとわかる感じです。そこから先は、小さなガーダーで道を越え、白川分岐となりますがレールは分岐まで撤去されています。記憶ではガーダーを渡らず、一般道から分岐部に登って行ってます。分岐部は残っていましたが、そこから三浦方向はまさにレールをほじくり返した跡でした。つまり、枕木を掘り起こした跡がずっと繋がって入る感じです。
 白川線の鉄橋をわたり(これは怖かったです。渡り板は健全ですが手すり等一切無いので)、滝越発電所分岐まで来たところ、発電所入り口のコンクリートのタタキで併用軌道となっているところに132号機がレールを積んだ運材台車を従えて止まっていました。
 作業していた人に聞いたところ、昨日までに三浦ダムから白川分岐までのレール撤去をしてきたとのこと、しかもここ数週間での作業だったのこと。しばし絶句、あと数週間前に来ていたら、撤去作業とは言え本線を走る、文字通り最終運行の列車を記録できたのに。
 そして、自分らが訪ねたこの日は最後の区間である白川事業所への引き込み線を撤去する作業だとのこと。レールが見えない程、草が生い茂った引き込み線に台車を先頭に乗り入れていき、元事業所の建家の前まで伸びている線路を撤去していくのを見学しました。
 電動のショックレンチみたいな工具でジョイントのボルトを外していき、バールでレールをこじりながら、犬釘を抜いていくと、最後にビヨヨーン、というかボヨヨーンって感じでレールがはじけるのです。そうやって外したレールを運材台車に乗せて、移動しては外して、って感じで、実に要領よく撤去作業は進んでいきました。引き込み線への分岐まで戻ったところで、一旦、発電所への引き込みへ乗り入れ、ここでフォークリフトでレールをトラックに乗せ替えていました。ここまで作業を見守ったあと、関電のC型客車?の写真とか撮り、滝越〜田島の王滝村営バスに乗って田島に戻っています。
 村営バスは御岳林道経由となり、御岳貯木場や濁川温泉を経由します。当然生きた作業林道でもあるので、途中には集材所とかあり、集材機が稼働していたり、廃車体を利用した詰め所とかもありました。
 田島からの戻るバスでは対岸の林鉄跡がトレースでき、ところどころ重機で改修を掛けていたような気がします。そして、そのまま木曽福島に戻り、中央線、大糸線経由で糸魚川に出て、夜行立山?若しくは「きたぐに」で富山まで行き、立山砂防へと移動しています。
 本当の最後に本線上で稼働した車両を見たことになったかと思うと感慨深いものがあります。また、最後まで稼働した132号機はそれゆえ田島の車庫にあった131号機とは別の運命となり松原にしばらく放置?されることになりました。
 このときはこれで本当に最後と思い、また長野県西部地震により王滝村自体が大きなダメージを受けたこともあり、まさかもう一度木曽詣ですることになるとは思いもよらなかったのです。