もりこーの木曽路日記

特別寄稿 巻本さんのアルバムから−9
今回のシーナリーガイドで「私のアルバムから」は終了致します。さて、私が「赤面もの」の写真でも、あえてシリーズで公表したのは、少し理由があるのです。
  約半年ほど前に森川さんから、木曾森林鉄道の写真をHP上で公開させてほしい、と依頼されたときに、私には一つの考えがありました。私たちが模型を作っている時に、当該車輌の写真が全くなかったり、またはあっても一方向の側面のみで、他の部分を想像で仕上げることは往々にしてあります。その時、たった1枚でも望む写真があれば、どんなに心強いかは、皆さんも理解できると思うのです。
  しかし、こういう模型の資料を提供する媒体は、TMSなどの商業誌と個人のHP開設(本の発刊を含む)以外には、現在のところありません。商業誌だと「赤面もの」の写真の掲載はダメですし、個人では力量(情報収集能力)に限界があります。そこで、モデルワーゲン社のHPが多くの人の「模型資料を提供する媒体」を兼ねることができるのならば、鉄道模型愛好者にとって「待ち望んでいた第三番目の情報源」となると思ったからです。
  せっかくの時間を本来の模型製作と違う情報探しに使用したり(見つかればまだ良いのですが)、想像で製作したために、結果として、とんでもない間違いをしたりすることを、自分では「こんな写真」と思っていたものが解決してくれる可能性もあるのです。また1枚の写真から、皆さんの賛同を受けてそれが模型化されることもあると思います。
  どうぞこれを機会に、諸先輩方の写真の公表と、このモデルワーゲン社のHPが「第三の模型情報媒体」として発展して行くことを願っています。

  前回に続いて木曾森林鉄道のストラクチャーとシーナリーをHP用に送ります。撮影場所は、滝越駅から白川線,王滝本線の滝越ー本谷,濁川線の順に移動していきます。これらはいずれも、滝越−堤防上間に残されていた関電の撮影のついでに記録したものです。日付は1977年と1978年です。前回と同様に、レイアウト作成用の資料として撮りダメていたものから選びました。


@この頃に滝越駅の線路撤去と舗装工事が始まりました。やまばと号客車は、このようにしてシ−トを被せられて、車庫の前に保管されていました。1977-8-1


Aこれは2代目「やまばと号」です。平沢商店のすぐ近くに、車庫が作られていました。1977-8-1


B滝越から少し上がったところにあった、白川製品事業所の合宿所だった蘇水寮です。モデルワーゲンの年賀状やHPにも酒井No.92号機付きで登場しました。前の道は奥に進むと、濁川温泉を経由して、王滝村に行くことができました。右側には楕円タンク車が見えています(2両あります)。滝越からの有名な桟状に組んであった軌道は、草むしていましたが、まだ残存していました。1978-10-30


C滝越から本線を本谷方面に1km程歩くと、すぐに白川線の分岐点がありました。右が王滝本線の本谷側、左は白川線で左折後すぐに大鉄橋を渡ります。白川線の運材はこの側線に留置された後、本線のDLが牽引していきました。1977-8-2


D白川線にはこのような特徴ある落石覆いがありました。残念ながら、これ以外のめぼしい施設は、白川線沿いに何も残っていませんでした。1978-10-30


E滝越−一ノ瀬間は、このような木がうっそうと茂った森林の中を抜けていました。まだ現役で使っている本線とはとても思えませんね。1977-8-2


FG滝越から本谷まで林道が開通していたので、それを通って本谷まで行くことにしました。林道は、本谷に着く手前で三浦本谷線に沿っていましたので、その軌道跡を見ることができました。番号は不明でしたが、台枠にSKWが入っていましたのでNo.90, 94以降で、うっすらと読める文字からは、90番台であることが判りました。後方2枚戸、扉とキャブサイドが両方Hゴム、排気管と逆側にエアークリーナーカバーがあります。1977-8-3


H滝越−本谷間を列車の2倍以上の時間をかけて、やっと本谷に着きました。本谷には、まだ駅名標が残っていた他、B型客車や運材台車が数多く放置されていました。1977-8-3


I本谷駅の待合室になっていたB型客車です。屋根から見ると旧タイプのもので、このような車体が残っていたことはラッキーでした。車体側面には補強が入っています。1977-8-3


J本谷駅に軌道自転車が放置してありましたので、それを借用して5人乗りで土浦まで行くことにしました。三浦湖畔沿いには、所々落石がありましたが、その箇所は軌道自転車を担いで移動しました。1977-8-3


K高いところに登って、俯瞰をしてみたくなるような湖畔沿いに線路があります。対岸には水無線跡が見えています。1977-8-3


L土浦の合宿所は、既に廃屋のようになっていました。1977-8-3


M土浦駅から堤防上側を望む。ここから先は、草むして進むことができませんでした。この軌道自転車に5人乗りをして、1人で漕ぐのはハッキリ言って大変でしたね。草の抵抗は思うよりは大きいのです。1977-8-3


N濁川温泉の宿です。王滝村から滝越へ行く林道の途中にありました。温泉宿は林道から直下に10分程(登りは20分)下った所にあり、川原のすぐそばにありました。わざわざここに、林道から歩いて降りてきたのは、林道走行中に何か興味ある物が川原に「チラッと見えた」ためです。木曾森ファンの夏の合宿所にもなった、このひなびた温泉宿は、長野県西部地震により土石流に埋まってしまいました。ご冥福をお祈り申し上げます。1978-10-30


O濁川温泉の宿から対岸に渡る吊り橋です。向こう側半分がひどく壊れていて(踏み板がなく、ワイヤーのみ)、渡るにはレンジャー部隊の訓練さながら、となりました。しかし、「興味ある物」を確認するには、これを渡る以外には方法はありません。1978-10-30


P吊り橋から川原を歩くこと約30分でやっと姿が見えてきました。「ひょっとして」と思ったものは、やはり有名な濁川線の木製三角トラスの残骸でした。1978-10-30


Q長い間、「赤面もの」の駄作におつきあい願いまして、ありがとうございました。最後にお見せした濁川線の木製三角トラスには、私個人の深い思い出があるのです。思えばTMSに載った、このトラスの模型が私と木曾森を強く結びつけたきっかけであり、そしてそのトラスの現物を濁川温泉の2km程上流の濁川線廃線跡で見つけたとき、私の木曾行きは終わり、また私の「木曾森林鉄道のアルバム」は、この写真を最後に閉じられることになるのです。雑誌などで、このトラスの本体の写真を御覧になった方は多いと思いますが、紅葉の中、白き御岳をバックにトラスが存在していたことは、ほとんどの方がご存じないのではないでしょうか。私はあまりに素晴らしい光景を前に足がふるえ、「昔はここを運材が走っていたんだ」と遅すぎた自分を悔やみました。現在は長野県西部地震により土石流に埋まってしまい、この光景が2度と見られなくなってしまったのは非常に残念なことです。1978-10-30(終わり)

平成13年11月13日から始まった「巻本さんのアルバムから」も、今回で一応完結しました。約4ケ月に亘って合計176枚ものプリントを手焼きで送って下さり、しかも、スキャナーを経由してHP上に掲載した場合の調子が出るまで焼き直して下さるなど、大変お世話になりました。
  勿論、本業があっての限られた貴重な時間を割いて頂き、感謝に堪えません。きっと、この資料が皆様の何らかのお役に立てることを願って止みません。(森川幸一)